大正麦酒事情

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そも麦酒とは如何なる物であるか(大正14年第1版・昭和6年第82版『廣辭林』より)
ビール[麦酒=Beer]
大麦を主要なる原料として醸造したる酒、
大麦の麦芽より浸出したる液に「ホップ」を加えて苦味芳香を付興し、
これに酵母を混じ醗酵せしめて醸造したるもの、
普通のものは褐色なれど、黒ビールと称するもあり。

明治の麦酒 我国初の本格的ビールの醸造及び販売は大阪の渋谷庄三郎によって明治5年に始められた。 さらに、翌6年には甲府、9年には札幌(北海道開拓使麦酒醸造所)に夫々麦酒醸造所が創設された。 其の後、各地に続々と麦酒会社が誕生し一時は100社を越えるかの如き勢いを見せました。 亦、麦酒は文明開化以来、ハイカラ人によって好まれましたが、其大半は舶来麦酒でした。 明治20年以降の産業革命による近代化に伴い、近代的麦酒会社が各地に設立されました。 明治20年には東京で日本麦酒醸造会社が、21年には札幌麦酒会社が、22年には大阪で大阪麦酒会社が設立され、 26年に夫々日本麦酒株式会社、札幌麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社となりました。 亦、明治21年に横浜から麒麟ビールが発売されました。 此様に現在も続く大手麦酒会社が誕生したのが此時期でした。 明治33年、北清事変が起きると軍備増強の必要から、翌年10月より麦酒に税金が掛けられるようになり、 明治30年代から40年代にかけて、資金力の弱い中小醸造所が統廃合されていき、麦酒業界の再編成が行われました。
大正の麦酒 大正3年に第一次世界大戦が勃発しましたが、我国に戦果の及ぶ事は無く大戦景気を満喫しました。 此れは麦酒業界も例外ではなく、欧州方面からの輸出が断たれた南洋や印度市場に進出していきました。 亦、其の後も麦酒に対する需要は拡大し、各社が挙って新工場を建設すると共に、 新たに麦酒事業を始める会社も続々と現れ、麦酒業界は活況を呈しました。 大正8年、亜米利加で禁酒法が成立すると、麦酒醸造機会が不用品となり、 其機会を買い取った我国の企業化が新しい麦酒会社を設立すると云うようなことも起きました。 また、夏の風物詩としてお馴染みの麦酒販促用美人画ポスターが定着したのも大正期である。 大半は無名の画家によるものであるが、其の美術的価値は大きく評価されるものが多い。

大正時代に創立されたビール会社
麦酒名会社名/所在地創立/発売年
サクラビール帝國麦酒/門司明治45年/大正2年7月
カスケードビール日英醸造/鶴見大正8年/大正9年
フジビール東洋醸造/仙台大正8年/大正10年10月10日
大正12年麒麟麦酒に合併
高砂ビール高砂麦酒/台北大正8年/大正9年
ユニオンビール日本麦酒鉱泉/愛知大正11年/大正11年5月11日



大正時代の主なビールの銘柄
サクラビール(帝國麦酒、大正2年発売)
カスケードビール(日英醸造、大正9年発売)
フジビール(東洋醸造、大正10年発売)
高砂ビール
ユニオンビール(日本麦酒鉱泉、大正11年発売)
カブトビール
キリンビール
アサヒビール
サッポロビール
エビスビール
ハコダテビール(現在売られているものとは別)



全国麦酒生産石高
年度石高
大正1年度196,404
大正2年度221,753
大正3年度238,520
大正4年度248,818
大正5年度354,152
大正6年度422,485
大正7年度511,525
大正8年度677,249
大正9年度550,089
大正10年度656,174
大正11年度764,344
大正12年度805,905
大正13年度915,073
大正14年度793,912

宣伝、ポスター、広告 アサヒビール エビスビール 明治大正期の看板 サクラビール 婦人画報大正14年8月号掲載 私物9.5mmパテベビーフィルムより 大正〜昭和初期の家族旅行の映像中に映ったサクラビールの看板

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