会津藩は松平中将が納めていた藩で、 彼の有名な新撰組も会津藩お預かりの身分であった。 幕末のまだ公武合体派が主流を占めていた当時、 公方様よりの命によって京と守護職を任じられた会津中将松平容保公は、 今日の見や此の治安を回復するために尽力し、其功績を時の天皇陛下より感状を賜った。 然し、菊の香りに葵が枯れるの如く幕府は衰退し、ついに大政奉還。 戊辰の役に於て会津藩は賊軍の汚名を着せられることとなる。 白虎隊は此の戦から会津藩を守るために戦った14〜17歳の少年による部隊であった。 然し、時代の流れには敵わず部隊は傷つき、終に飯盛山へ転進する。 其の時、遥かに見ゆる鶴ヶ城に黒煙がたなびいていた。 其れを見て、お城が燃えている、会津は負けてしまったのだと思った隊員たちは次々に自刃した。 然し、其煙は会津軍自らが敵軍からの防御方として火を放った煙なのであった。 かくして悲劇の最後を向かえた白虎隊隊員の冥福を祈念し、 後の世まで語り継ぐために石像と石碑が建てられたのである。
鶴ヶ城の黒煙を眺める石像と石碑