第一次世界大戦

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第一次大戦とは墺洪国皇太子暗殺世界情勢各国軍事力欧州大戦概略青島・南洋戦欧州派遣艦隊独逸軍捕虜終戦各国軍服飛行機有名人



そも第一次世界大戦とは如何なる物であるか
大正3年7月28日墺太利洪牙利帝国がセルビアと開戦、独逸・オスマントルコ帝國が墺太利洪牙利帝國(オーストリー・ハンガリア)に協力。 露西亜帝國・亜米利加・佛蘭西・大英帝国・伊太利がセルビヤを助けた。 其の戦火は東洋にも飛び火し、全世界を巻き込む世界大戦へと発展した。 参加国 『大英帝国』『佛蘭西』『白耳義(ベルギー)』『伊太利』『露西亜帝國』
『セルビア』『大日本帝國』『亜米利加合衆国』『中国』等の連合国と、
『墺太利洪牙利帝国(オーストリー・ハンガリア)』『独逸』
『オスマン・トルコ帝國』『勃牙利(ブルガリア)』の同盟国(枢軸国)である。 大戦は同7年11月11日に終結した。 欧州の主戦場方面とし、大西洋、太平洋、中東、阿弗利加(アフリカ)等で戦闘が繰り広げられた。


きっかけとなった墺洪国皇太子暗殺事件 墺太利洪牙利帝国皇太子フェルヂナンド大公とホーヘンベルヒ妃が、 同国ボスニヤ、ヘルツェゴビナ2州で行われた大演習後の大正3年6月28日に、 ボスニヤの首府サラエボ市の歓迎会に向かうため自動車にて市庁柄向かった。 途中兇漢に爆裂弾を投げつけられ、従者数名を負傷させるも大公は無事であった。 然し閉会後自動車にて帰途に付いた大公に又もや他の兇漢が短銃を3発連射。 其の内の2発が不幸にも大公に命中し、1発が妃に命中した。 衛戍病院に於て迅速なる治療が行われたるも、同日夜に絶命せられた。 フェルヂナンド大公はフランシスヨセフ皇帝(84歳)の甥(弟ルードヴィヒ公の子)で当時年齢は52歳、 皇太子ではあるものの、明治33年頃より皇帝に代わって墺洪国統治の実権を握って居られた。 1人目の兇漢はベルグラード市の印刷職工ガブリノウィッチ、 2人目の兇漢はセルビヤの学生プリンツェプで、両名とも凶行の後直ちに捕縛せられた。 さらに尋問の結果この事件の計画指揮者はセルビヤ参謀本部の軍人であることが判明した。


当時の世界情勢 世界大戦勃発の要因として、バルカン問題と其れに絡む欧州諸国の対立がある。 欧州諸国の同盟関係 1871 独逸帝国完成(独逸統一) 1871〜90 ビスマルク体制期 70〜71の普仏戦争後に作り上げられた独逸中心の国家関係で、 仏蘭西の復讐を押さえ込むために独逸のビスマルクが推進した仏蘭西包囲網。 露西亜との提携強化や伊太利、墺太利洪牙利帝国との同盟締結、対英親善外交を行った。 各同盟国間ないでも対立を抱えていたが、一先ずは対仏包囲網として同盟関係を結び、 大英帝国は不干渉の姿勢(光栄ある孤立)をとる。 三帝同盟(1873) 独逸、露西亜、墺太利洪牙利帝国 独墺同盟(1879) 独逸、墺太利洪牙利帝国 三国同盟(1882) 独逸、墺太利洪牙利帝国、伊太利 独 対 仏  アルザス・ロレーをめぐる対立 伊 対 仏  チュニジアをめぐる対立 墺 対 露  バルカン支配をめぐる対立 墺 対 伊  未回収伊太利をめぐる対立 1890〜日露戦役 ビスマルク体制崩壊 新興独逸資本主義は急速に発展し、新たな市場、資本の開拓先をバルカンに求めるようになる。 然し之はバルカンの現状維持、露西亜との提携強化を重視するビスマルク体制とは相反するものであった。 其の結果、ビスマルク体制は崩壊し露西亜と仏蘭西が同盟関係となり、 仏露両国と大英帝国との対立は深まっていく。 同様に露西亜との対立が大きくなる大日本帝國と日英同盟締結、 明治37年、遂には日露戦役となる。 日英同盟(1902) 大日本帝國、大英帝国 亜米利加も支持に回る 露仏同盟(1891) 露西亜、仏蘭西 三国同盟(継続)  独逸、墺太利洪牙利帝国、伊太利 英 対 露  中央亜細亜、清をめぐる対立 英 対 仏  阿弗利加、東南亜細亜をめぐる対立 英 対 独  建艦競争始まる 独 対 露  バルカンをめぐる対立 墺 対 露  バルカンをめぐる対立 墺 対 伊  未回収伊太利をめぐる対立 独 対 仏 日 対 露  露西亜の大連占領と軍備増強をめぐる対立 日露戦役〜世界大戦 二大陣営対立 独英関係の悪化(3B政策と3C政策の衝突)と独逸同盟国の強大化を受け、 之までの対立関係を改めて大英帝国を中心とした各国が三国協商を成立させる。 之により『英、仏、露、(日、米)』対『独、墺、伊』と云う対立構造が構築された。 然し其の影で伊太利は仏蘭西に接近し、露西亜国内には革命の兆しがあるなど、 どちらの陣営も内部に問題を抱えていた。 其の様な状況下墺太利洪牙利帝国、露西亜は積極的に対外進出を行いバルカンで衝突。 遂にサラエボでの墺皇太子狙撃事件を切欠に世界大戦へと発展して行く 日英同盟(継続)  条約改正を行いつつ続行、印度も同盟に含まれる 日露協商(1907) 大日本帝國、露西亜 英露協商(1907) 大英帝国、露西亜 英仏協商(1904) 大英帝国、仏蘭西 三国同盟(継続)  独逸、墺太利洪牙利帝国、伊太利 仏伊協商(1902) 仏蘭西、伊太利 英 対 独  3C政策と3B政策の対立 独 対 露  バルカンで対立 独 対 仏  モロッコ事件に夜衝突 墺 対 露  バルカンで対立、汎スラブ主義対汎ゲルマン主義 墺 対 伊  未回収伊太利をめぐる対立


各国の軍事力


大英帝國の代表的戦艦・巡洋戦艦
艦形艦型/同型艦名武装其の他
ベレロフォン級
シュパーブ
テメレアー
主砲 12吋45口径連装砲×5
副砲 4吋50口径砲×16
雷装 18吋魚雷発射管×3
但し、主砲直上に配置されていた副砲は大戦時撤去。
オライオン世級
コンカラー
モナーク
サンダラー
主砲 13.5吋45口径連装砲×5
副砲 4吋50口径砲×16
雷装 21吋魚雷発射管×3
キング・ジョージ5世級
アイアン・デューク級
マールボロ
ベンボー
エンペラー・オブ・インディリア
主砲 13.5吋45口径連装砲×5
副砲 6吋45口径砲×12
対空 3吋高角砲×2
雷装 21吋魚雷発射管×4
エリン級
(レシャディー)
元々はオスマントルコ帝國が発注していた戦艦。英国が大戦勃発にとも無い徴発。
カナダ級
(アルミランテ・ラトーレ)
元々はチリのために建造していた戦艦。大戦勃発に伴い英国が購入。
クイーン・エリザベス級
ウォースバイト
バーラム
ヴァリアント
マラヤ
マラヤは馬来連邦からの献金で建造。
ロイヤルオーク級
ロイヤル・ソヴリン
リヴェンジ
レゾリューション
ラミリーズ
全艦頭文字Rの艦名である事からR級とも呼ばれる。
インディファティカブル級
ニュージーランド
オーストラリア
同型艦は艦名の國よりの献金で建造。



ライオン級
プリンセス・ロイヤル
クイーン・メリー
タイガー
タイガーは金剛級と準姉妹船。
レナウン級
レパルス


独逸帝國の代表的戦艦・巡洋戦艦
艦形艦型/同型艦名武装其の他
バイエルン級
バーデン
ナッソー級
ヴェストファーレン
ラインラント
ポーゼン
ヘルゴラント級
オストフリースラント
チューリンゲン
オルデンブルク
カイザー級
フリードリッヘ・デア・グローセ
カイゼリン
プリンツレゲント・ルイトポルト
ケーニヒ・アルベルト
ケーニッヒ級
グローサー・クヒュルスト
マルグラーフ
クローンプリンツ
フォン・デア・タン級
モルトケ級
ゲーベン
ザイドリッツ級
デアフリンガー級
リュッツオー
ヒンデンブルグ



欧州大戦概略 同盟側は1915年10月〜12月初旬にかけての戦闘でセルビヤを占領すると、 続いて弱小なるモンテネグロに侵攻し、瞬く間に首都セチンジェ攻め上った。 之が為モンテネグロ政府は1916年2月25日に墺太利洪牙利帝国に無条件降伏した。 アルバニヤに敗退したセルビヤ軍敗残部隊は墺軍の追撃部隊に追われ、 アドリチャック海岸より伊太利国船によってコルフ島に輸送された。 墺軍は2月27日デュラッゾを占領してアルバニヤ作戦を終了した為、 ヴァロナ方面の伊軍との大規模戦闘は起こらなかった。 然し、アルバニヤ領北部エピラス占領問題に関して、 両国間に於ける狭義は円滑に進まず墺軍は同地に占領軍を派遣。 其の後大なる戦闘もなく問題は解決された。 セルビヤ救援の為サロニカに上陸した英仏軍はブルガリア軍に押され、 1916年早春、一時サロニカ北方に防御陣地を構築して対抗。 ブルガリア軍ギリシア国侵入による敵の増大を嫌い、 国境を越えての攻勢を避け睨み合いとなる。 其の間にコルフ島より輸送されたセルビヤ軍が英仏軍に合流。 戦力的に優勢となった連合軍は4月下旬より ギリシア、セルビア、ブルガリア国境に前進。 少数の独墺軍と合流したブルガリア軍と局地戦闘を開始。 更に露西亜帝国、伊太利の両軍を加えた連合軍は、 ローマに策応して攻勢を取り、11月中旬モナスチールを奪取し、 セルビヤの一部を同盟軍より奪還した。 ローマは露西亜帝国が1916年6月より実施したガリチェン攻勢の成功を受けて、 8月27日墺太利洪牙利帝国に対して宣戦布告。 主力部隊を以ってトランシルヴァニヤ攻略作戦を実施するも、 10月下旬より各方面から集中された独逸ファルケンハイン軍に撃破され、 更に国内に撤退したところに同軍より大攻勢をかけられ、 続いて南方よりマッケンゼン軍のドナウ川強行渡河を受け、 マッケンゼン指揮下の両軍に完全に撃破された。 ジャットランド海戦 英独両艦隊距離1万7千mにして、英戦艦の砲撃によって海戦の火蓋が切られる。 海戦勃発より3分、英巡洋戦艦『ライオン』に命中弾。 12分後、『ライオン』の砲塔は破壊された。 33分後、英殿艦巡洋戦艦『インディファティブル』に命中弾3発を受け轟沈。 其の後、英巡洋戦艦『クイン・メリー』、『インヴィンシブル』轟沈。 英大艦隊司令長官ゼリコー元帥曰く 『我が艦の沈没は防御力の薄弱なためであった。』
英独海戦対抗勢力比率一覧
海戦名(勃発年)交戦国名総排水量比率戦闘結果
コロネル沖海戦(大正3年)独逸33,032100勝利
英国28,90087全敗
フォークランド沖海戦(大正3年)英国70,880100勝利
独逸33,57050全敗
北海(ドッカーバンク)海戦(大正4年)英国132,400100勝利
独逸90,40068敗退
ジャットランド沖海戦(大正5年)英国1,14,612100攻勢
独逸662,50258退却



青島等攻略 独逸は租借せる膠州湾により連合国の通称を脅かし、東洋の平和を危うくした。 そこで我が国は日英同盟の誼を重んじ、独逸に最後通牒を送り、膠州湾を支那に還付するよう求めたが、 独逸はこれに答えず、大正8年、我が国は独逸に対し宣戦布告した。 対独参戦を決定した我が国は、陸軍独立大18師団と海軍第2艦隊をもって、 独逸の極東根拠地である青島要塞に攻撃する事を決定した。 第18師団主力は9月2日〜同15日山東省半島北岸の竜口付近(青島より北に約100km)に、 重砲部隊等は労山湾(青島より東に約40km)に夫々上陸し、攻撃を開始した。 9月28日までに敵前進陣地を奪取し足場を作った我が軍は、約1月の準備の後要塞攻撃を開始した。 11月、強力な火砲を装備した攻域重砲兵4個大隊と、実戦初参加の航空隊、 更には天津付近に駐屯していた英軍が連合軍として協力し、 ついに膠州湾・青島及山東鉄道全線を占領することに成功した。 この戦果には直接戦闘に参加しなかったものの、第一艦隊による黄海から東海北部の警備も忘れることはできない。 作戦終了後、青島守備軍(青島節で有名)が設けられ、占領地の守備を任じられた。

青島陥落 敵白旗を掲ぐ
陸軍省公表、七日午前七時我第一線の一部は
イルチス、ビスマルク、モルトケ砲台を占領せり
敵は午前七時頃大文台上又午前七時頃海岸堡塁に白旗を掲ぐ
陸軍省広報、中央堡塁の奪略に引き続き
左翼隊は今七日午前五時十分小湛山北堡塁
又中央隊は午前五時三十五分台東鎮東堡塁を占領せり
中央堡塁西方伸家窪砲台も亦其の重砲二門と共に我有に帰せり
南洋諸島 我が第一艦隊南遣支隊は英国海軍東洋艦隊と共同し、 南洋に神出鬼没する独逸東洋艦隊を殲滅。 其の結果我が国は赤道以北の独逸領、マーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などを、 英国は赤道以南の独逸領南洋諸島を占領した。 又、第三艦隊は東海南部からフィリッピン諸島の東方海域を警備した。
大日本帝國参加兵力及編成
所属部隊(背景は兵科色)備考
帝國陸軍独立第18師団師団長 神尾光臣中将
第18師団
歩兵第29旅団
野戦重砲兵第3連隊
野戦銃砲兵第2連隊
独立攻城重砲兵大隊15cm榴弾砲
20cm・24cm榴弾砲
10cmカノン砲
28cm榴弾砲
独立攻城重砲兵中隊15cmカノン砲
独立工兵第1・第4大隊
航空隊ファルマン4機、ニューポール1機
臨時鉄道連隊
英国派遣部隊(陸)歩兵1個大隊
印度兵2個中隊
部隊長 バーナジストン少将
帝國海軍第1艦隊
南遣支隊
全般支援
独逸東洋艦隊殲滅
司令長官加藤友三郎
第2艦隊封鎖及上陸援護
第3艦隊南洋方面警備
海軍少将土屋金之
英国派遣部隊(海)封鎖及上陸援護
日独両軍の戦闘参加兵力と死傷者数
所属戦闘参加兵力重砲数軽砲数死傷者数
日本29,0000約100(其他に37mm機関砲30)5012,500
独逸約43,00005347800



海軍欧州派遣艦隊 大正6年2月、独逸の潜航艇の攻撃によって、我が国の船舶が頻繁に遭難(撃沈)された。 そこで我が国は、印度洋の警備を厳重にし、更には地中海に出動し、連合国と共同作戦を行うこととした。 特務艦隊は連合国海軍と共同し、対潜水艦戦、輸送船隊の護衛、 豪州・新西蘭等よりの大規模な軍隊輸送船団の護衛、通商保護等の重要な任務に従事した。 対潜水艦戦においては、駆逐艦『榊』等の奮戦によって、わが水雷戦隊の名を世界に轟かせ、 護送任務においては、実に70余万人もの人員を直接護送した。 特務艦隊の活躍は目覚しく対戦終結の折には我が海軍を世界三大海軍のひとつと言わしめるに十分であった。 海軍第二特務艦隊戦死者慰霊碑 第二特務艦隊では、独潜水艦と交戦の折戦死した駆逐艦『榊』の駆逐艦長以下59名、 他戦病死者を含む全78名の戦死者を弔うため、マルタ島の墓地に海軍墓地を設けることとなった。 大正7年、マルタ島に第二特務艦隊司令部の設計による墓碑を建立、納骨。 大正10年には皇太子殿下御外遊に際し、同墓碑に花輪を手向けられた。
帝國被撃沈商船一覧
船名トン数船主摘要
靖国丸4962山下汽船大正4年11月3日・アルポラ沖
千寿丸4535辰馬汽船大正4年11月中旬・ポートセイド沖
八阪丸10932日本郵船大正4年11月21日・アルポラ沖
建国丸3217南満洲鉄道大正4年11月29日・クリート島沖
大越丸3092中越汽船大正5年6月24日・カレー沖
小雛丸3140村井汽船大正5年8月3日・アレキサンドリヤ沖
天明丸3224白洋汽船大正5年8月10日・バルセローナ沖
永田丸3515藤永田造船所大正5年11月30日・ウーシャン沖
多喜丸3208松昌洋行大正5年12月16日・ピスケー海岸200マイル沖
青島丸2590松昌洋行大正6年1月4日・ジブラルタル沖
第三喜佐方丸2587山下汽船大正6年1月20日・仏アリヤン沖
真盛丸2837原田汽船大正6年2月20日・ポートセイド沖
澤丸2532大澤商会大正6年3月6日・アイルランド沖
泰山丸3527橋本船舶部大正6年5月2日・アイルランド沖
宮崎丸7892日本郵船大正6年3月31日・英仏海峡
第七雲海丸2143中村組大正6年6月16日・ボンベー沖
唐山丸2426松昌洋行大正6年6月下旬・アイルランド沖
神桟丸5600神戸桟橋大正6年7月2日・イタリー沖
信貴丸3083橋本船舶部行大正6年7月7日・仏ルゲート沖
影島丸4565松昌洋行大正6年7月20日・英仏海峡
萬代丸2919大正汽船大正6年8月15日・アフリカチェンスボン沖
彦山丸3554橋本船舶部大正6年10月2日・西ハンガリア沖



独逸軍捕虜 この大戦の間に日本の捕虜となった独逸軍捕虜はおよそ4,000人であった。 其の中でも特に有名なのが徳島県鳴門市に収容された捕虜たちである。 殻らは元々松山、丸亀、徳島の収容所に分散収容されていたが、 其の合計1,044人(最大時1,028人、将校28人、下士官32人を含む)が、 鳴門市へ送られ、兵舎8棟、他17棟に収容された。 捕虜たちに対する待遇は日露戦争の時ほどではないものの、 人情と信仰に篤い、心優しき地元住民や松江豊寿所長によって、 捕虜収容所にしては格段に自由な生活をおくり、地元住民との交友も深めた。 更に特筆すべきは、この収容所ないで音楽好きの独逸兵が有志を募り、本格的な楽団を結成。 大正7年10月にはベートーベンの第九交響曲を日本で初演奏した。 ちなみにこの時の会場は、徳島市の新富座。入場料は特等席1円、並席50銭。 11名の病死者を出したものの、大戦終結後の大正9年1月末までに残る全員が帰国した。


終戦 大正7年11月、独逸・墺太利洪牙利帝国洪牙利帝国が降伏、休戦条約に調印。 翌年1月より大日本帝國・大英帝国・亜米利加・仏蘭西・伊太利の連合国側5大国を中心に、 連合国諸国の委員が巴里にて会合を行い、講和条約を議定した。(巴里講和会議) 同年6月28日、ヴエルサイユ宮殿鏡の間に於いて、対独講和条約(所謂ヴエルサイユ条約)の調印を完了した。 この時、我が国の全権代表として西園寺公望前内閣総理大臣と牧野伸顯前外務大臣を派遣した。 ヴエルサイユ条約にて我が国が獲得した利権 1.独逸の膠州湾租借地に関する一切の利権を譲り受けた 2.赤道以北の独逸領諸島の統治委任          3.国際連盟に加盟し、世界の大問題を協定するの地位 


参加国各国軍服
国名軍服解説
大日本帝國陸軍 45式軍衣歩兵
大日本帝國陸軍 45式軍衣喇叭卒
大日本帝國海軍 麦わら帽と事業服。
大正4年から熱帯方面へは剣する艦隊の水兵と、陸上勤務の下士卒に貸与されることになりました。
大日本帝國海軍 海軍陸戦重砲隊。
青島攻囲戦に参加した海軍陸戦重砲隊が着用していた物で、士官以下皆同型、同材質で准士官以上は肩章をつけた。
独逸陸軍 制帽着用状態。
戦闘時には古式ゆかしいスパイクヘルメットを装備する。
露西亜帝國陸軍 外套着用状態。
露西亜陸軍の軍服は、民族服の『ルバシカ』に似た意匠の上着と乗馬ズボンで、防寒用に灰色のオーバーコートを着用しました。
大英帝国陸軍 制帽着用状態。
大英帝國は他国に先駆けてカーキ色の軍服を採用しました。
其の後、カーキやくすんだ褐色が戦場で目立ちにくいことがわかると、他国も挙って採用しました。
大英帝国陸軍 皿ヘルメット装備状態。
大英帝國でお馴染みの皿ヘルメットは、この頃から使われていました。
大英帝国陸軍
蘇格蘭(スコットランド)連隊
蘇格蘭の兵士はキルト(スカート)を正服とすることで有名ですが、第一次大戦当時は戦場でもキルトを着用しました。
佛蘭西陸軍 第一次大戦勃発当初、仏蘭西の軍服は濃い青色の外套に赤いズボンでしたが、一年後に目立たない水色軍服に変更されました。
背中の棒は、トレンチ・ショベルです。
亜米利加陸軍 被っている帽子は、スロウチ帽です。鉄兜は、英国と同じ皿ヘルメットを使用しました。



新兵器、飛行機の脅威 第1次大戦の勃発とともに、世界各地で飛行機が実戦参加。 世界初の航空機実戦参加は1914年8月、 独逸軍機の仏蘭西リュネビュに対する2発の爆弾投下である。 この時の攻撃方法は、操縦主が爆弾を手でつかみ、 狙い定めて投下すると言う方法だった。 爆撃や偵察として使われるようになると、其飛行機を撃墜するために、 戦闘機という新たな機種が発展していくこととなり、 初参加から2年後のヴェルダン戦場においては、 機関銃を装備した飛行機が敵味方あい乱れて空中戦を行った。 独逸の撃墜王リヒトホーフェンが敵機80機を撃墜したのはこの頃である。 我国では陸軍が『モーリス・ファルマン』飛行機4機、『ニューポール』飛行機1機で、 又、海軍は大正3年8月23日、横須賀海軍工廠で運送船『若宮丸』に水上機搭載設備を整備し、 青島攻略戦に水上機母艦『若宮』に『モーリス・ファルマン』飛行機4機、 予備機ルンプラー『タウベ』飛行機1機を搭載し参戦したのが初の実戦となった。 この当時の飛行機は固定脚を持つ陸上機とフローとを持つ水上機(艦載可)や飛行艇があり、 主に羽布張りの複葉乃至三葉機で、単葉機はまだまだ少なく、速度、攻撃力、航続距離などもまだまだ未発達であった。 プロペラは牽引式(着たい前方にある))と推進式(機体後方にある)の二種類があり、 現在も用いられているのが牽引式であるように、こちらの方が優れている面が多い。 牽引式の方が速度が速かったのだが、機銃の問題から推進式を用いる機が多かった。 次に搭載機銃についても簡単に解説すると、 極初期の頃の飛行機には機銃は搭載されて居らず、搭乗員の拳銃や小銃で射撃を行っていた。 然し、此のようなものでは攻撃力が低く機関銃搭載の要望が高まっていった。 其の要求を満たすべく初めて搭載された機関銃が旋回機銃である。 之は後の偵察・爆・攻撃機に搭載されたものと同じように、 機銃其のものを旋回して標的を狙うと云う装備である。 只、此の当時は推進式が多かったため、機銃手は機体前部に位置する場合が多い。 一見簡単に狙えるように思われがちな旋回機銃であるが、 飛行機其の物が常時動いており、其の状態で照準をあわせるのはむつかしい。 又、牽引式飛行機の場合はプロペラ越しの射撃はまだ不可能であった。 前方射撃の為の様々な工夫が行われたが、 遂に根本からの解決策としてプロペラ同調機が導入された。 之により回転するプロペラの間から機銃弾を打ち出すことが可能になった。 搭載可能な対地攻撃兵器は、機銃、爆弾、釘,煉瓦などがあり、 大戦初期は爆弾の懸架装置も末発達だったため、搭乗者が直接放り投げるという方法も行われていた。 又、釘や煉瓦は歩兵殺傷用の武器で、やはり搭乗者が直接ばら撒くという使用方法だったらしい。

陸軍 モーリス・ファルマン飛行機
 全長:12.00m 全幅:15.50m
 全高:3.66m 主翼面積:60.00m2
 乗員:2人
 発動機:ルノー空冷式V型8気筒 70馬力
 最大速度:90km/h 航続時間:4h



諸外国大戦中の有名人 大戦中に有名になった人や、後に有名になる人達の紹介 大英帝国 R A J ウォーンフォード  1915年6月7日、初のツェッペリン級飛行船撃墜を遂げる。 亜米利加 独逸 マックス インメルマン  空戦史に其の名を轟かす「インメルマンターン」の開発者。  1916年1月独逸最高勲章プール・ルメリト勲章を受賞。  1916年6月18日英陸軍航空部隊第25飛行中隊に所属する  マッカビン中尉とウォーラー伍長が駆るFE2bにより撃墜され、戦死を遂げる マンフレッド フライヘル フォン リヒトホーフェン  独逸空軍が誇る80機撃墜のエースパイロット。  真紅のアルバトロスDS及びフォッカー三葉機を愛機とした。  真赤な愛機にちなんで「赤い男爵(レッドバロン)」異名あり。  1918年4月21日戦死。 エルウィン ロンメル  陸軍小、中隊長を務めた。後の「砂漠の狐」。  講義内容を纏めた「歩兵の攻撃」は今尚陸軍教育に用いられる名著。  ワイマール共和国陸軍でも士官として所属している。 アドルフ ヒトラー  後の独逸第三帝国総統。独逸人ではなく画家志望の墺太利人である。  伍長として従軍するも、戦傷により後送。傷病兵のまま終戦を向かえる。  後ナチス党に入り、ミュンヘン一揆以後勢力を拡大し、第三帝国総統となる。 ヘルマン ゲーリング  1918年7月以降、駆逐飛行大隊リヒトホーフェン編隊隊長を務める。  後、独逸第三帝国空軍大臣。 露西亜帝国(途中から蘇連) ニコライ2世  露西亜帝国最後の皇帝。  露西亜革命により皇位を追われシベリアへ追放された後、  モスコーからの命令で1918年7月16日に家族と共に銃殺された。 グリゴリ- イヒモビッチ ラスプーチン ウラジミール・レーニン ヨシフ スターリン(筆名) どうでもいい話 人間大砲のもとになったアイデアが仏蘭西で生まれた。 巨大な大砲で敵陣後方へ自軍の兵士を打ち込んで強襲すると云う案だった。 当然現実的でないので実用されなかった。




第一次大戦とは墺洪国皇太子暗殺世界情勢各国軍事力欧州大戦概略青島・南洋戦欧州派遣艦隊独逸軍捕虜終戦各国軍服飛行機有名人




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